化学の特許なら東京、秋葉原のリュードルフィア特許事務所にご相談ください。

ニュースレターNo.16 「水性接着剤 審決取消訴訟事件」

<概要>

今回は、平成18年 (行ケ) 第10487号 審決取消訴訟事件について検討してみました。この事件は、実施可能要件、即ち、請求項に記載された発明の全てについて実施可能か否かについて争われたものです。

この事件は、発明の名称を「水性接着剤」とする特許権 (特許第3522729号)に関するものです。

手続の経緯は次の通りです。まず、本件特許に無効審判請求がなされ、特許庁は無効審決をした。原告特許権者は、該審決に対して取消訴訟を提起した。その後、原告特許権者が訂正審判を請求したので、特許法第181条第2項に基づいて上記審決を取り消す旨の決定がなされた。該決定により特許庁において上記無効審判請求につき再審理がなされ、特許庁は訂正請求を認めた上で、再度、該特許を無効にする旨の審決をした。これに対して、原告特許権者が審決取消を求めたのが本件である。

原告特許権の特許請求の範囲(請求項1)は下記の通りです。なお、下線部分は訂正により追加変更された箇所です。また、括弧内に記載した構成要件a、b、cは原告主張の便宜のために記載したものです。

「重合開始剤として過酸化水素を用いシード重合により得られる酢酸ビニル樹脂系エマルジョンからなり且つ可塑剤を実質的に含まない水性接着剤であって (構成要件a) 、測定面がチタン製円錐−ステンレス製円盤型のレオメーターを用い、温度23℃、周波数0.1Hzの条件でずり応力を走査して貯蔵弾性率G’を測定したとき、その値がほぼ一定となる線形領域における該貯蔵弾性率G’の値が230〜280Paであり (構成要件b)、且つ測定面がチタン製円錐−ステンレス製円盤型のレオメーターを用い、温度7℃の条件でずり速度を0から200(1/s)まで60秒間かけて一定の割合で上昇させてずり応力τを測定したとき、ずり速度200(1/s)におけるずり応力τの値が1200〜1450Paである水性接着剤 (構成要件c)。」

本件の争点は、特許請求の範囲に記載された酢酸ビニル樹脂系エマルジョンからなる水性接着剤が、明細書全体の記載から製造可能か否かと言うことであった。酢酸ビニル樹脂系エマルジョンには、酢酸ビニルモノマー単独重合体のみならず、酢酸ビニルモノマーと他の多数の不飽和単量体との組み合わせも含まれていた。ところが、実施例には、酢酸ビニルモノマーとn-ブチルアクリレートとの重合体に関する結果のみしか記載されておらず、また、明細書の他の部分にも、酢酸ビニルモノマー単独及び他の不飽和単量体との組み合わせの製造に関する具体的な情報は開示されていなかった。

A. 原告の主張の要点

特許法第36条第4項 (実施可能要件) 違反の判断の誤り

審決は、実施例で使用した製造原料 (酢酸ビニル及びn-ブチルアクリレート) 以外のものを使用すれば、実施例と同一の方法で本件発明の物が製造できないと認定している。しかし、実施例で使用した原料以外の物を使用したとき、その原料について実施例と同一の方法を適用して、本件発明の物が得られないからと言って、直ちに本件発明が実施できないと言うわけではない。実施例と同一の方法ではなく、素材に適した方法に変更すれば、本件発明の範囲内のものが得られるのである。

本件発明は、構成要件a、b及びcより成るものである。そして、実施例をそのまま追試すれば、構成要件a、b及びcを充足する物を得ることができる。従って、本件発明は発明の詳細な説明に基づいて実施し得る。構成要件bは、貯蔵弾性率G’の値が230〜280Paになっており、構成要件cは、ずり応力τの値が1200〜1450Paになっている。これらの下限値及び上限値はいずれも実施例で得られた水性接着剤の値である。なお、構成要件aは、全部公知の事項であって発明の前提事項であるから、発明の実施と言う観点からは取り上げる必要のないものである。

原告は、使用原料にn-ブチルアクリレートを添加せずに酢酸ビニルモノマーのみを用い、かつ実施例の基本設計を用いて本件発明を実施し得るか否かを確認した(実験成績証明書)。その結果、明細書に「特に、G’a及びτaを前記所定の範囲にするためには、重合開始剤である過酸化水素水の添加量、添加時期及び添加方法、保護コロイドや界面活性剤の種類及び添加量などが重要である」と記載されているように、実施例の基本設計中、過酸化水素水の添加量、保護コロイドの種類及び添加量、界面活性剤の添加量を変更することによって、本件発明を実施できた。

以上のことから、本件発明が本件明細書の記載に基づき実施できることは明らかである。

B. 被告反論の要点

本件発明の酢酸ビニル樹脂系エマルジョンを構成する不飽和単量体の組み合わせは多数存在し、その組合せによって物性が大きく異なることが知られている。また、該不飽和単量体の種類が変われば、他の製造条件が同じであっても、貯蔵弾性率及びずり応力が大きく変動することは提出した証拠からも明らかである。従って、本件発明が実施可能であると言うためには、酢酸ビニル樹脂系エマルジョンを構成する不飽和単量体の組み合わせ、つまりこれによって得られる物性の異なる酢酸ビニル樹脂系エマルジョンの全てについて、構成要件b及びcを充足する物を実施し得るか否かが検討されなければならない。

本件発明が実施可能であるとは、本件発明の全範囲に亘って実施できることを意味する。従って、実施例として記載された方法をそのまま追試することにより発明の実施態様の一つが実施できると言うことと、発明の全ての範囲に亘って実施可能であると言うこととは、別の事項であり、実施例がそのまま実施できれば直ちに発明の全ての範囲に亘って実施できると言うものではない。

原告は、実施例と同一の方法ではなく、素材に適した方法に変更すれば、本件発明の範囲内の物が得られると主張するが、原料を変更したものが実施可能であると言うためには、それを発明の範囲内とするための各素材に適した方法を当業者が容易に見出せる必要である。しかし、明細書には、そこに記載された約20項目の要件をどのように選択、変動させれば貯蔵弾性率及びずり応力の値をどのように調整できるのか、そして、本件請求項の数値範囲内に調整するために、どの要件をどのように調整すれば良いのかについての具体的な教示は全くない。

原告は、前記の実験成績証明書によれば、本件発明が容易に実施可能であると主張するが、そもそも該実験成績証明書は、無効審判において全く審理されておらず、本件訴訟の審理範囲から外れるものである。仮に該実験成績証明書を斟酌するとしても、これは原告の従前の主張とも反し信用できないものである。

C. 裁判所の判断の要点

本件発明は、酢酸ビニル樹脂系エマルジョンから成り、貯蔵弾性率G’、ずり応力τが夫々所定値となる水性接着剤である。貯蔵弾性率G’、ずり応力τを所定値とするための方法に関しては、本件明細書には、「貯蔵弾性率G’及びずり応力τは、シードエマルジョンの種類や添加量、シード重合に用いる酢酸ビニルの添加量、前記酢酸ビニル以外の重合性不飽和単量体の種類、添加量、添加時期及び添加方法、保護コロイドや界面活性剤の種類及び添加量、重合開始剤である過酸化水素水の添加量、添加時期及び添加方法、前記添加剤の種類や添加量、重合温度、重合時間などの重合条件を適宜選択することにより調整できる。特にG’a及びτaを前記所定の範囲にするためには、重合開始剤である過酸化水素水の添加量、添加時期及び添加方法、保護コロイドや界面活性剤の種類及び添加量などが重要であるが、これらに限らず、上記の種々条件を適宜選択することにより、G’a及びτaを所定の範囲に調整することが可能である。」と記載されているのみである。

上記記載には、貯蔵弾性率G’とずり応力τの値を調整する多数の因子が列記されているのみで、これら多数の因子を具体的にどのように調整すると貯蔵弾性率G’とずり応力τの値が如何に変化するのかについての記載がなく、一義的に理解することができない。そして、「・・・シード重合に用いる酢酸ビニルの添加量、前記酢酸ビニル以外の重合性不飽和単量体の種類、添加量・・・などの重合条件を適宜選択することにより調整できる。・・・」としながら、実施例においては、重合性不飽和単量体として、n-ブチルアクリレートを所定量添加したものに限られている。酢酸ビニルのみを用いて製造されるエマルジョンや、n-ブチルアクリレート以外のモノマーを添加した場合の具体例も示されておらず、それらを用いて本件発明の水性接着剤を製造する方法についての記載もない。

本件発明は、水性接着剤を構成する酢酸ビニル系エマルジョンとしてはシード重合により得られるものであれば特に制限はないとされているところ、酢酸ビニル系エマルジョンを形成する際に用い得るモノマーには多種多様なものがあり、実施例で用いられているn-ブチルアクリレートはその一つにすぎない。しかし、本件明細書には、実施例の製造方法以外に、貯蔵弾性率G’とずり応力τを所定の値に調整した酢酸ビニル系エマルジョンを製造する具体的な方法の記載は全くない。そうすると、シード重合により得られるものであれば特に制限はないとされる本件発明の酢酸ビニル樹脂系エマルジョンについて、酢酸ビニルのみを用いて製造されるエマルジョンの場合及びn-ブチルアクリレート以外のモノマーを酢酸ビニルに併用する場合に、貯蔵弾性率G’及びずり応力τについて所定の値を満たす水性接着剤を製造する方法についての記載はないと言うことになる。

また、原告は実験成績証明書に基づいて実施可能であると主張するので、この点について判断する。実施可能要件を満たすと言えるためには、明細書の発明の詳細な説明自体に特許に係る発明が実施可能なように記載する必要があり、その記載にない事項を後の実験等により補うことが許されないことは明らかである。そもそも本件明細書に記載のない事実に係る実験成績証明書についての原告の主張は失当である。そして、該実験成績証明書を見ても、その記載は、本件明細書の実施例とは水の量、PVAの種類及び併用の有無、EVAの量、触媒の量等の項目で相違しており、これらの条件を適切に変更し得るかに関して、本件明細書の記載から当業者が過度の試行錯誤なく成し得るものとは到底認められない。

裁判所は、以上のように述べて、原告の主張を却下しました。

検討

本件の問題点は、特許請求の範囲に記載された酢酸ビニル樹脂系エマルジョンが、酢酸ビニル単独重合体及び酢酸ビニルと多種類の重合性不飽和単量体との重合体を含むにもかかわらず、実施例には、酢酸ビニルとn-ブチルアクリレートとの重合体のみしか記載されていなかったということにあります。特許請求の範囲の内容を決定するに際して、特定の実験から可能な限り発明の技術的範囲を広げておきたいと考えることは当然のことであり否定するものではありません。実際、明細書作成者の殆どはそのようにすると考えます。本件においても、もちろん発明の技術的範囲を広げ過ぎていると自認しつつこのような請求項の記載にしたと思います。素人目にも、重合性不飽和単量体がn-ブチルアクリレートであるときと、例えば、本件明細書に記載されている芳香族ビニル化合物であるときとで、いずれも同様に実施し得るか否かは疑問に感じます。従って、本件のような無効理由が生じることは当然承知の上であったと考えられます。しかし、一旦、特許権として成立してしまうとなかなか引き下がれないのも事実です。何とかして、広い技術的範囲のまま維持したいと考えます。もちろん、訂正の際に、n-ブチルアクリレート及びそれに類似する物質に限定してしまえば無効理由は解消し得たと思います。しかし、それでは意味のない権利になってしまうのでしょう。

結果から言えば、もっと広い範囲で実施例を記載しておくべきだったと言うことになります。少なくとも酢酸ビニル単独重合体程度に関しては記載しておく必要があったでしょう。出願時に間に合わなくても国内優先権を利用して補充すると言うことも考えられます。このような形で無効になってしまうのは非常にもったいないと思います。

一般的に、請求項に多数の物質を列挙する際には、それらの物質が一つの特定のカテゴリー (性質) に属するか否かと言うことをまず考えます。そして、それが一つのカテゴリーに属しないと考えられるときは、カテゴリー毎にそれらの物質を分類し、そして、そのカテゴリー毎に発明の実施が可能か否かを考えることが重要です。そして、実施可能であれば、夫々のカテゴリー毎に実施例を記載することが必要ですし、実施可能でないならば、実施不可能なカテゴリーに属する物質は、発明の範囲から除外することになります。

本件でもう一つ参考になることは、提出した実験成績証明書の取り扱いです。上記のように裁判所は明細書に記載のない事項を後の実験等により補うことが許されないことは明らかであるとして実験成績証明書を参酌していません。要するに、実施可能要件は、明細書等に記載された事項と出願時の技術常識に基づいて判断されるべきものであり、これらに基づいて実施可能要件を満たしていると認められない場合には、明細書等に記載のない事項を補うことを目的とする実験成績証明書は、実施可能要件を満たす根拠にはならないと言うことです。実施可能要件及びサポート要件に関する実験成績証明書の取り扱いはますます厳格になってきています。

以 上



お問合せはこちらから!!

リュードルフィア特許事務所「業務内容」のページに戻る

リュードルフィア特許事務所のトップページに戻る



リュードルフィア特許事務所は化学関係を主体とした特許事務所です。